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メールマガジン記事 シリーズ古書の世界

古本屋四十年(Ⅰ)

古本屋四十年(Ⅰ)

古書りぶる・りべろ 川口秀彦

 古本屋になって四十年が経つ。それ自体はめずらしくはない。私の場合、編集者六年、新刊書店員六年の後の転進で、編集者から古本屋、新刊店員から古本屋という例はかなりあっても、両方とも経験というのは多くないだろう。しかも営業場所を、開業した横浜で19年、東京吉祥寺で8年半、神田神保町で11年、無店舗になり神奈川の自宅で2年と移している。店舗を移転する人はいても、所属組合が神奈川古書組合から東京古書組合、そして神奈川に出戻るという例も他には聞かない。さらに私は、最初の三年間はあえて組合非加入のアウトサイダーとしてやっていたから、成功した古本屋ではなくとも、様々な環境での古本屋を経験してきている。話のネタには困らない。まず開業の頃の話から始めよう。

 新刊書店員時代の同僚だったり知り合っていた店員仲間で、古本屋修業などしないまま、ほぼ同時期といえる短期間に古本屋になったのが五人ほどいる。みんな本が好き、本を売るのが好きで、いつか自分の書店を持ちたいと思っていた連中である。その一人で、リブロの新刊店舗大展開に向けての人員拡充に応じた丸山君というのがいた。地方のリブロで古本催事を数回担当するうちに数人の古本屋と親しくなり、商品の仕入れから店の内装方法に至るまで聞きだして、初期費用の少なさ、棚構成の自由さなどの面から、古本屋になる方が新刊屋よりはるかに良いと思ってリブロをやめ、店員仲間だった私などに呼びかけてきた。編集者時代に、いつ潰れてもおかしくない零細版元より古本屋が良くないかと思って、知り合っていた下北沢の古書店幻遊社の長沢さんに尋ねたことのある私は、最初にそれに応じた。同じような坪数、同じような立地の新刊店を作る三分の一以下の金額で店も商品も何とかなるというのは魅力的だった(後に加盟する古書組合の加入金でも、新刊取次への担保金、信認金の一割ほどでしかない)。生業として店を構えるにはある程度の資金が必要だと思って貯めていた手持ち資金の範囲内で、無借金で開業できた。ただ、売上が家賃にほぼ比例すると知ったのは後の話で、家賃の安い立地を選んでしまった。また金利に追われる経験を最初にしなかったから、稼ぎの良いジャンルを開拓したり、上客をとらえて離さないような努力をしたりの必死さが少なく、経営状態が悪くなっても打つ手を考えつかず、ずるずると来てしまったのは、初期の苦労が少なかったためかも知れない

 丸山が最初に開いたのは東横線祐天寺のあるご書店(この店はかなり前に閉店しているが、丸山が経営していた店は、それぞれ別の屋号だが最大時は八軒ほどあって、今でも数軒は—丸山はもう店から離れているが—営業を続けている)。書棚やカウンターなど、内装は私たち新刊店員仲間を動員して、当時流行し出していたDIYの店で買った板、電動工具、塗料などを使ってほとんどを手作りしていった。このメンバーが作った二番目が横浜希望丘の私の店、三番目が東横線都立大学の麗文堂書店、その後小田急相模原、東横線学芸大学と、同じような手作り内装で私たちは仲間の店を増やしていって、二年間で五つになっていた。手作りとはいえ、古本屋というより新刊書店のような明るさと清潔感を持った店に仕上げたのは、店主が皆、新刊店員だったためも大きい。丸山はブックオフより十年早く明るくて入りやすい店を目指していたし、確かに来客者も当時までの古本屋の客には少ない女性層も多かった。

 古本にせよ新本にせよ人々が本を買う時代だったというだけでなく、チリ紙交換の最盛期だったことも、私たちが古本屋の経験がなくてもセコハン本を売り続けられた大きな要因だった。新刊書店員あがりの私たちが一番商品知識を持てている新し目の出版物、シロッポイ本は、チリ交さんやタテバ(製紙原料問屋)とつき合うことができれば、不足することなく仕入れることができた。街の古本屋の生活を支えるのは、文庫、マンガ、エロ本といわれていたが、その三つのジャンルともチリ交さんたちから十分に買えた。その頃はやり出したハーレクインロマンスなど、旧来の古本屋さん達が扱わないジャンルも積極的に仕入れて主力商品の一つとしていた。ハーレクインは商品としての生命力は短かかったが、当時は新刊屋ですごく売れていた商品だった。かつて漫画がそうだったように、旧来の古本屋さんたちは、新しい出版ジャンルにはすぐには手を出さないようだった。私たちの店に女性客が多かったのは、新刊屋のように絵本、児童書を重要商品として並べただけでなく、ハーレクイン類の陳列も効果があったのだろう。

 私たちは、自店の売上が不足だからというのではなく、スーパーなどの催事をグループで受けてやっていた。丸山や麗文堂小林君など、リブロ出身者が西友系のスーパーから頼まれるのだ。四十年前、スーパーの催事としての古本まつりは、店側からも好評のイベントだった。時には古書組合員の古本屋さん達と一緒に出展する大きい古本まつりもあった。

 今では考えられないほど、店、またそうした催事でも本は良く売れていたのに、それ以上に仕入れが多く、在庫が溜る一方だった。競合する古本屋が多い東横線立地の仲間たちよりも私の方が在庫のふえ方が多かったようだ。また丸山や小林は規模の大きい新刊店員育ちであるためか、返品不能品を割と簡単にツブシていた感覚で、溢れた在庫をタテバで処分していたようだが、新刊店員時代にそうした経験の少ない私は、生来のセコさもあって在庫処分をタテバに任せようという気にはなれなかった。

 古書組合に入って課せられる義務や制約とアウトサイダーでいることの自由さを比較して、私たちのグループは組合に加わらないままやって行こうと話していたのだが、私は組合に加入する気になった。東京と神奈川という立地の違いもあるからと、仲間たちも納得してくれた。私は古書市場に出品するために組合員になったのだ。入ってみれば、組合は面倒くさい点は多々あっても、想像していたよりは自由だった。ただ、私でさえ組合の仕事で時間をとられることが多かったから、世話好きの丸山が組合員になっていたら、自分の店を多店舗展開するヒマは無かったかも知れない。彼はアウトサイダーのままで正解だったような気がする。

 丸山は大学を出た直後は、短期間だが日活で映画製作に関わったらしい。すぐに原宿キディランドの新刊書店要員として転職、ここでの同僚の一人が、のちにリブロの今泉棚という棚構成で名をあげてカリスマ書店員と呼ばれた今泉正光で、今でも親しくしているようだ。今泉はリブロを辞めて長野の平安堂に移ったが、平安堂長野駅前店(今はもう無い)の店頭での古本催事を、私や麗文堂に任せてくれて、今世紀初頭の十年程はやっていた。ちなみに、今泉と丸山と私は同年齢である。

 丸山と私は、小田急ブックメイツが新刊書店事業に新規参入する際の店長募集に応じて同僚となった。同僚だった期間は一年半、丸山は先にリブロに移籍した今泉に呼ばれたのか、リブロに行った。そんな丸山の名を私が最初に知ったのは、同僚になる五年前、七二年秋のことだ。まだ薔薇十字社にいた私は、横浜関内のキディランドからの刊行予定書の注文数に驚いて、営業まわりの際に同店を訪れた。翌年七三年に出版予定の鷲巣繁男の加藤郁乎論『戯論』(けろん)を、同店は三十部だか五十部だか予約注文してきた。決して安くはない薔薇十字社の単行本の中でも二倍近い価格の三千八百円、限定千部の本である。確認せずにはいられなかった。発注担当者が丸山だった。売り切る自信があるとして減数はしなかった。同書がやっと刊行された七三年六月には私は薔薇十字社にはいなかったから、どうなったか判らないし、後に丸山から聞いてもいない。『戯論』の古書価は現在はあまり高くない。




横浜・希望丘の店の開店直後。エプロン姿が私。右側は大学の後輩で、当時希望丘の職業訓練校に勤めていた村上さん。
開業前の店の内装などを手伝ってくれた。ベビーカーは村上さんのお子さん。

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